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2018-01-08(Mon)

「重症児の心に迫る授業づくり」

先月読んでいた本がとても心に残ったので、その感想をアップしたいと思います。


重症児の心に迫る授業づくり0108 -

↑「重症児の心に迫る授業づくり」三木裕和・原田文孝・河南勝・白石正久・著 かもがわ出版




この本は兵庫県にて、重度の障害がある子供たちの教育をされてきた、学校の先生たち2人が中心になって、執筆されたものです。


最初に出てきた”1人目”の先生は、重度障害児施設の訪問学級を担当されている先生でした。


受け持っている生徒さんが亡くなられることがあったり、…授業についてお見舞いをしにきたのか分からなくなると心迷われたり…この先生は重度の子供たちの中でも、最重度の子供たちの教育をメインに受け持たれているようでした。




本の中にはこんな一節がでてきます。


「重症児の中でも、笑顔で自分の気持ちを伝えてくれる子供たちや、イエスノーをはっきり意思表示できる子供は、介護するものと子供の気持ちが結びつきやすい。愛されやすい。」


「1番重度とされる子供達はどちらかというと人気がなく、かかわってもらうチャンスに恵まれにくい。反応が弱いために介護するものの気持ちがよそにいきやすい。」





普段なかなか声に出してはいえないけれど、これは、障害児の親である私自身も、長い病院生活の中だったり、色々な場面で、感じてきたであろうこと……


でも、こうやってはっきり言葉にされると、改めて胸に突き刺さってくるものがありました。






この本の先生は、ある日思い立って、「自分たちが普段授業している様子や、病棟から教室に移動する様子などを(隠し撮りのような体で)撮影し、あとから自分たちでその映像を見返す。」ということをされたそうなのですが、そこで、


「認識力の低い最重度の子供達ほど、教員から声をかけてもらっていない」…という事実を目の当たりにし、愕然とされます。





先生はこの事実を厳粛に受け止めた上で、



●子供からの反応の実感がないと、「気持ちが通い合っている」というリアリティーがないからこういうことは起こりがちである。


●介助が多い子供だと、どうしても身体の方に意識が行って、心の方を置き去りにしてしまう。




…と分析もされ、その上で、「どうやって教師は生徒と心を通わせればいいのか」と考えを巡らせます。





介助が多いと子供の心を置き去りにしがち…。

これって医療ケアが必要な子の親にありがちな悩みじゃないかな…とも思ってしまいました。

「絶対無言で吸引しないようにしよう。」「娘が話せなくても私からは必ず声掛けをしよう。」……そんなふうに心に決めていても、ケアをしている自分のしんどさが、何かを上回ってしまい、コミュニケーションをとることを放棄してしまうようなことが私には、これまで度々ありました。


分離オぺを受ける前は呼吸も安定しなかったので、娘の顔よりも酸素モニタの数値ばかりをみているときもあったし…

娘がもし健常児なら私はもっとたくさん話しかけてるはず…


そんな風に悩むことは今でもしょっちゅうありますし、普段私は自分の子にどうやって接しているだろうか……と、改めて色々と考えながら読んでしまいました。







この先生は、深い思索と様々な授業での取り組みを経て、最重度の子供たちとのコミュニケーションを探っていかれるのですが…




先程でてきた、「最重度の子は人気がなく、かかわってもらうチャンスに恵まれていない。」という洞察において、



「それでも最重度の子供を手放しで可愛がる職員がいる。」

「そういう人たちはその子が最重度だから可愛がるのではなく、それは、AさんはBちゃんを、CさんはDくんを…というように個別の関係になっている。」

「その理由をきくと、その子が大変だったときに必死に世話をして、それ以来他人のような気がしなかなったから…」



…と、反応の少ない子供達との愛情形成について、先生が答えを探される場面も印象的です。





世の中には、障害者を殺傷したり、様々な恐ろしい事件もあるという中、「一生懸命世話をしているうちに愛が湧く」と答えた職員の人たちのことを考えると、ひとの優しい部分、善人のの部分を強く感じて、勇気づけられるような思いにもなります。




この先生は、重い障害のある子への愛情への結びつきについて、つまるところ、「できないからこそ愛おしいと感じること」…それは「子供のためによいことがしたいけど、うまくいかずに悩む」自分たちの姿と共通するもので、「出来なさの中に願いを読みとる」ことが大事だと書かれていました。





ここまでくると、生きる思想、哲学のようなものを感じますが、常に生徒の心の動きを追い、目に見える結果だけにとらわれず、授業づくりを模索される先生の姿に、読んでいて、圧倒されるばかりでした。




***


そして…次には、いわゆる支援学校の肢体不自由部門の先生が、”2人目”の先生として、執筆を担当されています。


この先生のパートは、私自身が今後も娘との日々の生活の中で意識したいとも思うこともたくさん書かれていました。



●”肢体不自由児”は受身的な生活になりがちだけれど”主体不自由児”ではない

●普段の生活の中で喜びを感じる体験を増やしていくことが大事







この先生の生徒さんとして、呼吸器をつけられた重度の障害のお子さんが登場されるのですが、そのお母さんと先生との遣り取り、問答も読んでいて胸に迫ってくるものでした。


「全く身体を動かせない我が子が主体性を持って生きるということが理解できない。」

「結局すべて介助してもらわないと、何も出来ない。そこに主体性はあるのか。」




先生はお母さんの心の葛藤に寄り添いながら、それでもなお、「介助者を介してでも、なお目的を達成される力」を子供の中に見出そうとされます。




そして、気管切開をされているこのお子さんが、”カラオケにみんなで行く”という歌の授業をとおして、自分の意思で”アー”と発声するようになる過程が描かれていました。






また先生が授業の中で「空気」というまどみちおさんの詩を読んだとき…このお子さんが何度も涙を流したというエピソードがあるのですが、こちらもとても印象にのこりました。



本人にはきっと詩の意味は理解できていないはず……ではなぜ泣くのか??


それは、先生たち自身がこの詩を読んだとき、誰もが呼吸器をつけたこの男の子のことを思い浮かべ、その情動がお子さんに伝わっていったのでは…と分析されていました。






”障害が重い人は、なにも分かっていない、話しかけることにも意味がない”



障害のある子どもの家族は、そんな世間の意識に度々傷つくことがあるのはないかと思います。


でも重い障害のお子さんでも、私たちが認知できないようなルートで受け取り感じたり、なかなか私たちが気付きにくいけどどこかで思いを表出していたり……


なかなか障害と関わりのない人に語るとオカルトめいたも話だと思われるのかもしれませんが……私自身も個人的に、長い病院生活の中にて、娘だけでなく他のお子さんをみてきた中、感じてきたことです。




とにかくこの”2人目”のこの先生…「なんて子供の気持ちをキャッチするのが上手いんだろう」…と、夢中で読んでしまいました。








***

そして、なんといっても、最後に1番心に残ったのは、この先生の「学校と医療的ケア」に対する考えの部分。



「医療的ケアは、子供と信頼関係を築くチャンス。だからこそ教師がしなければならない。」…という言葉が強く印象にのこりました。



私にとって、”大きな負担””育児を限りなく不利にするもの”…という認識の医療ケア…。


けれども、この先生は発想の転換というか、例えば呼吸管理するために必要な吸引について、「(吸引をして)不快感を取り除けば、大人に対して信頼感がうまれる。」「他人に協力を得て実現していく力が育てられる」…というように仰っています。




この本が出版されたのは97年。


先程もでてきた呼吸器のお子さんのお母さんは、学校でただ1人、ずっと息子さんに全付き添いされている状態でした。




先生は、「お母さんの24時間介護の負担が大きすぎる。」「お母さんはずっと先生に気を遣っている。」と保護者にとっての医療ケアの問題点をあげつつ、「苦しいことから解放してくれるのはいつもお母さん。」「苦しいときにそばにいる教師から吸引してもらえないと、信頼関係を築けないどころか、(教師に)不信感をうむ。」とも述べられていました。





まだまだ情報を集められていない身の私なのですが、医療的ケア児の就学をめぐっては、今も厳しい現実があるように思います。




そしてこれは私個人が日頃感じていることですが…



●医療ケアは娘の成長とともに第三者に委託する機会を増やせると嬉しい。

●子供のケアが親しか知らないブラックボックスと化すのが怖い。
(もし親に何かあったらというのもあるし、あと親の都合すべてで子供の出席などが左右されてしまうのも悲しい。)

●そして、余りにもケアが持続的すぎるので心身ともに負担が大きい。どこかに親側にもケアから離れる時間があってほしい。そしてその休息を生かしてより豊かな気持ちで子育てや療育にのぞませてもらえると嬉しい。




そんなような思いがあります。





この本の先生の子供側の療育目線にたった、

●親から離れ、子供自身がのびのびとできる時間があること
●自立心を育むこと
●教師やまわりの人と信頼関係を築くこと


…という医療ケアについての視点には、どんな障害児も1人の個人としてとらえ尊重するという心根を感じ、今回読んでいて深く胸に刺さった部分です。





医療ケアをめぐる就学の事情も、少しずつ変わってきているとも伺っています。

(私の住んでる地域では、呼吸器のお子さんは今も親が全付き添いらしいという噂もきいていますが…)


でも、こういう先生や、たくさんのお母さんたちが声をあげてきてくれたおかげで状況が少しずつ改善されてきたんだろうな、と思い、感謝とその重みを感じる一冊でもありました。









いわゆる自分たちがしてきた”お勉強”をするわけではないだろうという我が子が、学校で一体何を学ぶのか…ということは、障害児の母となってからずっと疑問に(あるいは不安に)思ってきたことの1つです。


そして、なんとなく、今は、”娘が就学まで無事に成長すること””そこで学校側にバトンを渡せるようにすること”…が1番の目標みたいになってしまっている自分がいます…。


イメージのつかないことは本当にたくさん…。


でも、今回タイトルに興味をひかれて、たまたま図書館で借りてきたこの本ですが、重度の障害を持つ子の授業というテーマでも、障害の向き合い方というテーマでも色々と参考になるものがあったように思います。


きっとこれから先々には本からだけでなく、現場をみたりするチャンスもあるはず……母もゆっくり考えていけたら、と思いました。



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2017-11-12(Sun)

“重度脳性まひ”“重症心身障害”と向き合うには…

娘が生後6か月のとき、重度の脳性まひと診断がついてから、ようやく娘の病状がわかって幾分スッキリした気持ちになったものの、やはり、“脳に障害がある”という事実は重く受け止めなければならないものでした。




また病院の方から、“脳性麻痺とはこういうものである”“この場所に損傷がある場合はこんなケースが多く、予後はこんな感じである”……というような説明があるのかと期待していたのですが、そういったものは決してなく……




たまたま私の娘が、“脳画像に異常がうつらないタイプの例が少ない脳性まひ”であったからなのか…“脳性まひの症状が説明できようもない程あまりにも千差万別”であるからなのか…




致し方ないことなのかもしれませんが、そういった中、「目が見えないだろう」「口からは一生食べられないだろう」という、ただただ厳しい告知だけがそこに残り、心が暗く沈んでしまったのも事実です。




救いになる何かはないのかと、ネットで“脳性まひ”について検索すると、膨大な情報が出てきて、どこからなにを汲みとっていけばいいのか全く分からない状態…。



そんなわけで、なにか1冊本を探して、“脳性まひ”について調べてみよう…と、娘が7か月過ぎた頃に、たまたま購入したのが下記の本でした。



脳性まひ精神遅滞の予防と家庭療育1112

↑「脳性まひ・精神遅延の予防と家庭療育」穐山富太郎著・医歯薬出版株式会社
定価2,000円なのですが、2001年出版と、やや年数が経っているからか、ネットにて数百円で購入することができました。








この本は、長崎県で脳性まひをはじめとする障害児の療育に広く携わってきた先生が執筆されたもので、医療者に対してだけでなく、障害のある子供の家族に向けて書かれています。




そのためか(こういう医療系の書籍を読むのが苦手な私であっても)比較的読みやすく感じました。




“脳性まひの原因にはどんなものがあるか”…その内訳であったり、“脳性まひのタイプにはどんなものがあってそれぞれどういう特徴なのか“……であったり……ネットで私が上手く拾えなかった情報が、集約されていました。




また…

●脳性まひの原因は実に様々である。

●障害が重度であればあるほど、二次障害というものが生涯にわたり付いて回る。社会参加がある人ほど二次障害の進行は遅い。

●施設生活者よりも在宅生活者の方が呼吸機能の低下などがおこりにくい。

●施設入所した重度脳性まひ児の死亡率の統計をみると、肺炎(48.6%)が圧倒的に多く、次に心不全(27.6%)である。


……などなど、病院では決して知ることのできなかった厳しい事実も、色々と伺い知ることになりました。







最近になってこの本を改めて手に取る機会があり、以前読んだときと比べて、思い直すことも沢山ありました。





その1つには、療育に何を期待するか、ということです。



障害や病気と闘う様々なお子さんの中には、なかなか療育へ取り組むこともままならない状況に置かれている方たちがいるのも事実で、そんな中、脳性まひについては、「リハビリが有効である」という意識が、私にも多少なりともありました。






この本の中にも…


「脳には驚くべき柔軟さがあって、大きな部分がごっそり脱落しても残った部分が新しい機能を獲得するという性質(可塑性)があります。」


「いったん破壊された脳細胞は生き返ることはないが、その同じ働きはまわりの迂回路をつくって取り戻すことができ、未発達の赤ん坊ほど期待がもてる。」


「子どもには未知の可能性が秘められています。この可能性を信じてやってください」


「訓練の方法は教えますが、実践がお母さんが家庭で行うものです。訓練の日に病院でやるだけでは駄目です。効果はゆっくりとしか出てきませんが、辛抱強く続けて下さい。」





…といった数々の言葉があり、当時の私はたくさん勇気をもらいました。


我が子の成長を、そう簡単にあきらめてたまるかと。





さらに本の中には、



●2歳近くまで寝返りができなかった重度の脳性まひ児がその後普通小学校に行き、肢体不自由ではあるものの、その後就労されているというケース


●19歳まで寝たきりで「はい」「いいえ」以外一切意思疎通のなかった児が、整形外科の手術をきっかけにパソコン学習ができるようになり、飛躍的に成長したケース



…なども挙げられています。




こういうごく一部の、おそらく稀有な例に希望をもらいつつも、自分にとって耳当たりのよいところだけを特に残して、「脳性まひの我が子には訓練あるべし」という思い込みのようなものも、どこかで持ってしまっていたかもしれないな…と読み返していて思いました。










療育について様々な視点で書かれている本ですが、“重症心身障害”についても、その理解や予後について、いくらか記述がありました。


「海外から来た療法士さんに重症心身障害児のセラピーを依頼したところ、hopelessベビーだと、一旦断られた…」という1文をみたときには、ショックな気持ちになったのを覚えています。



重度の障害はhopelessなのか、と。




「重症心身障害児に対して過度な療育効果を期待させてはならない。」
「しかし早期療育は重要である。」





なんともいえない……この 、 “希望を捨ててもいけないが、期待をしてもいけない”というのが、重症心身障害児の親に求められる療育への姿勢なのだとしたら、なんと厳しいのだろう……
そんな思いも湧き上がってきます。








そして、こうした思いは、私が日常、娘と接する中においても感じるジレンマの1つで、天使と悪魔ではないけれど(笑)頭の中で、別々の2人の声ともいえるようなものが、論争を繰り広げる場面が度々ありました。



1人は、「子供のできること必死に増やそうとして、何やってるの。無理なこともあるんだから、なんでそのままを受け入れてあげないの。」といい、もう1人は、「出来ないと決めつけることこそ、差別だよ。結果が出なくてもゆっくり頑張るんだよ。」といい、なんとも不毛な争いを繰り広げる(笑)





もう最近は、「しんどそうなときは休むし、頑張れそうなときは頑張る。どっちも正しいと思うし、どっちがいいのかは知らん!」と開き直りつつもあるのですが、重度の障害を持った子供の療育に、母親が・家族が、どうやって取り組んでいくのかということは、なんだかとても難しい課題のようにも思ってしまいます。





何よりも生命維持が真っ先の目標となり、それですら一寸先は闇…何かの拍子にさらなる重篤化を招くかもという不安にさらされ、心労の尽きない育児…。



そして、たとえ一生懸命療育に取り組んでも何の結果も得られないこともあれば、何の取り組みをせずとも運良く子供が飛躍的に成長する、という場合もあるのだろうと思うと、なんとも不条理な世界だよな、などと思ってしまうこともあります。







ただ、この「脳性まひ・精神遅滞の予防と家庭療育」では、最終的に、社会的なかかわりについて述べられており、



●療育の取り組みは家族が主体になるが、母親を孤立させてはならない

●訪問をはじめチームによるアプローチが必要で、家庭療育はゆとりをもって楽しい育児ができるようになることが大切である



……とも言及されています。




このあたりは以前読んだときにはピンと来なかったところもあったのですが、今になって読むと、ストンと胸におちてきました。



私たち家族も、在宅生活に移行していった中で、看護・リハビリ・診療のサービスなどから得られた支援に昨年からずっと助けられてきました。


心身ともに引きこもりがちだったのが、まわりのサポートを受ける中で、少しずつ、外との交流という方向に意識が向いてきたように思います。



当たり前のことだけれど、1人で抱え込んでいてはダメで、人との交流は、子どもだけでなく、親の自分にとってもどれだけ大事なことなのか…ゆっくりですが、考えが変わってきたところだと思っています。








***

そんな私ですが、子どもの重度の障害をありのまま受けとめるというのには、まだまだ長い時間がかかりそうですし、普通の子どもとは異なり簡単に意思疎通がとれない娘と接する中で、「私は娘のことを理解できているのだろうか?」と迷うこともまだまだ沢山あります。





けれど…これは、以前参加した障害に関する公開講座で伺ったお話ですが、「どんな重度の障害の人にも意思があることを忘れてはいけない。」ということが強調されていました。



どんな重い障害のある人でも意思がある、選ぶ力があると信じることが大切である、と。





この考え方は、この本の中で、私が最初に勇気をもらった言葉の数々にも通じるものがありました。



「脳性まひ者の能力は、障害が重度であればあるほど非常に低く評価されがちである。」


「両親を含めた健常者側の手前勝手な評価から、あるいは、障害者を社会の落伍者とする社会通念からか、重度障害者が本当にそのようなことができるのですかと、彼らの能力を疑問視する声がしばしば聞かれる。」


「チャンスを与えてみなければ、重度障害者の真価を評価することは到底できない。重度障害者からは本当に色々なことを教えられる。」






障害が重度でも、たとえ療育が期待とは異なる結果になったとしても、娘には色々なチャンスを与えたい。


この気持ちは、親としてずっとずっと持っておきたいものだと改めて思いました。








今回久々に読みかえしたこの、「脳性まひ・精神遅滞の予防と家庭療育」は、家庭療育についてのみならず、他にも、学校教育のこと、障害の告知のこと、障害の原因のこと……様々な分野で脳性まひについて書かれていて、色々と興味深い本だと思いました。


私が娘の障害と向き合うきっかけをくれた一冊だったのではないかと思っていますし、何かに迷った時に、また時々ゆっくり読み返したいな、と思います。



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2017-04-09(Sun)

アテトーゼ型脳性まひ“ラブちゃん”の、2冊の本を読んで感じたこと:その2

前回記事の続きです。

専門病院に長期入院していたころ、“なにかよいリハビリ方法はないか”と、探す中で、“ドーマン法”について書かれた、「奇跡のラブちゃん 脳性マヒから驚異の回復」という本を読みました。

その後、本の中でお子さんだった“ラブちゃん”が大きくなって、ご自身で書かれた本があるということをネットで知り、興味をひかれ、読み始めたのが、この“2冊目”の本。




2冊目:「三重苦楽 脳性まひで、母で、妻」


三重苦楽表紙

↑amazonにて新品で購入しました。正直、親御さんが書かれた1冊目の本よりもずっーと読みやすく、そして明るく、たとえ私が障害児の親でなくても、読んでよかった…と思える、とてもとても良い本でした。(大畑楽歩・著 アストラ出版)



まず、購入する際に表紙をみて、ラブちゃんがご結婚して、お子さんもいらっしゃることに、とても驚いてしまいました。

「障害があると結婚できない。出産できない。」…などと決して考えていたわけではないはずなのですが、正直、一冊目の親御さんの書いた本のラブちゃんから、想像できないお姿がありました。


この「三重苦楽」は、ラブちゃんが、31歳になって、自分の幼少期から現在の人生まで振り返る、自伝的な内容になっています。


まず驚いたのは、ドーマン法を受けたラブちゃん自身が、大人になって、ドーマン法について懐疑的な意見を述べられていたことでした。日常のすべてを訓練に捧げるような生活の仕方にご自身が疑問を感じられていたこと、訓練に弊害もあったのではないかということ…など、冷静で鋭い意見が述べられています。

「こういうのって受けていた本人が一番洗脳されるんじゃ…。よく自分でこれだけ客観的にみれるな。」とただただ感心してしまいました。


両親、家族との葛藤についても、ありのまま、書かれています。

きっと私であれば、グチグチタラタラなるところ、このラブちゃん、辛い思いもたくさんしてきたはずなのに、このあたりも暗さを感じさせないものになっています。

“障害児を守れるのは家族だけ”という親御さんの思いと裏腹に、“もっと外の世界とつながりたい”と自ら自分の人生を切り開いていくラブちゃんの姿が、眩しくうつりました。

夢中になれる趣味をみつけたり、より広い世界とコンタクトするために自ら移動手段を確保していったり…やがて療法士の旦那さんに巡り合い、お子さんを産んで育児に奮闘されたり…。



「人生、勝ち組、負け組などでなく、人生を楽しんでいるものと楽しんでいないものである。」

なーんて言葉をどこかで目にしましたが、ラブちゃんはまさに人生をめいいっぱい楽しんで生きている人だ、と思いました。健常者の私なんかよりずっと。


親御さんの書かれた本のタイトルが「奇跡のラブちゃん」となっていたのに対し、ラブちゃんは、「リハビリですべてを取り戻すことは不可能ではないか」と、ものすごーく現実的な見方をされています。

そして、「少しでも健常に近づくために、訓練あるのみ」といった周りの考え方にみんな追いやられていないか…と一歩踏み込んだ考え方をしめされているのです。

このあたり、あおいの母として、私、本当に耳が痛い…。


「なにか画期的なリハビリの方法はないか」と探しはじめて、みつけた2冊の本が、私に教えてくれたことは、とてもとても、意外なものだったのです。



***********


障害者、健常者関係なく、成人すぎてなお、“親から自立できていない子供”って実は多いのではないか…と最近、勝手に思っております。

親元を離れて暮らしていない、とか、なにか援助を受けている…とか、単にそういうことではなくて、“親の考えのコントロールから抜け出せていない人”、“自分で考えられない人”って結構いるんじゃないでしょうか。

(お恥ずかしながら、私自身に大いに思い当たる節があるんです…。)


“人生の重要な局面での決断を自ら下せず、親に仰ぐ人”“親の偏見をそのまま受け継いで狭い視野になってしまっている人”“無意識に、自分の幸せでなく、親の幸せを考えてしまう人”


…世を見渡せば、色々な親子関係があるように思います。


ラブちゃんが、ハンデを抱えながらも、なおも“自立”に向かって歩んで行かれたこと…。

私は、単純にすごい、と思ってしまいました。



そして、「親が子供のためを思ってしたこと」が、必ずしも、子供にとってよい、とも限らない、ということ…。
(これも障害のありなしにかかわらず、子育て全般に当てはまることなのではないか、とも思いました。)


私は、「あおいとともに地道にリハビリを頑張りたい」とずっと思っていたし、その思いは今でも変わらず強くあります。

そして、ときに、その思いが、独りよがりなものになっていないか、自分に危機感を覚えることも、度々あります。そしてついつい気負いすぎて自分を追い込んでいるように思えることも…。

小さいうちにできることをたくさんしておきたい、成長の伸びしろがもっと先にあるかもしれないから今はまだできることを限らせたくない…。

色んな思いが私の中にあります。


障害のある子供の子育て…。娘がどこまで成長できるのか、ゆくゆくどういうかたちでの自立を目指していけばいいのか、どういうサポートをしていけばよいのか……まだまださっぱり、分からないことだらけ…。


けれど、“ラブちゃん”の本を読んで感じた、“どんな親子関係にもあり得る危険性”をどこかで心にとめつつ、娘の顔をよくみながら、ときに周りの人たちに相談しながら、一日いちにちを大切に過ごしていきたい…と願う今日この頃です。





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2017-04-07(Fri)

アテトーゼ型脳性まひ“ラブちゃん”の、2冊の本を読んで感じたこと:その1

今回は、以前読んだ、障害に関する書籍の感想レビュー…そして自分が子育てについて感じている思いを書いていきたいと思います。


娘が1歳過ぎてなお、長期入院生活が続いていた頃、脳性麻痺について色々ネットで検索をする中で、ついつい探してしまっていたのが、「訓練などの成果で、すごくよくなったお子さんはいないのだろうか」ということ…。


その中で、「ドーマン法」という特殊なリハビリ方法があるらしいこと、そして、そのドーマン法を受けた“ラブちゃん(楽歩ちゃん)”という女の子が日本では有名で、その子の本が出ているらしい…ということを知りました。


そこで、タイトルにも興味を惹かれて、まず“1冊目”の本を、ネットで購入し、読み始めたのです。


************


1冊目:「奇跡のラブちゃん 脳性マヒから驚異の回復」


奇跡のラブちゃん表紙

1988年にかかれたものなので、かなり古い本です。古本でものすごく安く購入させてもらいました。(小西直樹・レイ子・著 彩古書房出版)



この本は、アテトーゼ型の脳性麻痺である“ラブちゃん”の、ご両親が書かれたものです。

(お名前が“楽しく歩む”、と書いて、“楽歩ちゃん”(ラブちゃん)という可愛い、素敵なお名前です。)


娘さんが10歳のときに、ご両親の対談というかたちで書かれたもので、「どうして娘のラブちゃんは脳性麻痺になったのか。」「ドーマン法というリハビリ方法に出会ってどのような訓練をしたか。」…等が語られていきます。

ラブちゃんは、コミュニケーションもとれる、健常者と比べるとぎこちないが歩行もできる……、と、「経管栄養や吸引ケアを必要とする、私の娘のあおいと比べると、ずっと軽い障害だなあ」…などと浅はかなことを思いながら、最初、読み進めておりました。


途中から、ドーマン法との出会いにより、ラブちゃんの壮絶なリハビリ生活が開始されます。娘への愛から、その特殊な訓練に身をささげるご両親のお姿に、次第に、驚きを隠せなくなりました。


毎朝6時前には起床して、パターニングとよばれるドーマン法独自の動きをひたすら何セットも繰りかえす、雲梯のようなものでのハードな運動、あえて酸素を制限するマスクを使っての訓練、それに加え、学習プログラム、ピアノ、ヴァイオリンなど…なんだか色々やっています…。


正直、どんな健常児よりも過酷な運動量や課題が与えられ、宇宙飛行士か何かを目指すのかと思われるほどの特殊な訓練…。しかも、学校に行かず、ほかの子供たちや集団社会との接点が、一切途切れたまま行われているのです。


このラブちゃんのご両親の姿に、「やりすぎ」と思いながら、自分にもどこか共通しているものがある……と私は鏡を突き付けられたような気持ちになりました。


「障害をなおしてあげたい。」
という思いが、ある種、「娘のありのままの姿」を否定し、「娘から日常生活そのものを奪ってしまっている。」…。


病院にいた頃、私は、朝から晩まで娘につきそい、必死に手足のマッサージをし、寝返りの練習をさせ、視力の刺激になるようにと絵本を読み、母子ともに、とにかく忙しなく過ごしていました。


そして、在宅生活に入った今でも、つい、娘との遊びの中で、手の動きをあれこれ観察しながら、「これをもっとこうできるようにしよう」とか、「この運動を、このくらいの時間行って、筋力をアップさせよう」とか、そんなことを考えて過ごしてしまっているときが、多々あるのです。


地道な訓練で得られるものもあるかもしれない…と思っていますし、毎日接する母親が娘の成長を観察する点には、よい部分もあるようには思うのですが、日常の大半を、この思考に費やす自分自身に、この数年、正直、異様さを感じることもありました。


「娘の障害を少しでもよくしたい。」というご両親の思いに深く共感しながらも、なにか上手く言い表せない違和感もどこかでおぼえた私…。


でも、この本は、ある種、“ドーマン法によってこれだけよくなった”という成果について書かれたものなので、ラブちゃんが訓練を経ることで、色々できることを得ているようにも思えました。


だったらこれでいいのかな?でも、ラブちゃんは過酷な訓練のありなし、それどころか障害のありなしに関わらず、元々ものすごく利発そうなお子さんであるけれど…。


果たして子供の方はこれで本当に幸せなのだろうか…。

そんなことを思いながら本を読み終えたあと、なんと、大人になったラブちゃんが、ご自身で本を書かれているというではないですか。

私は、ラブちゃんが、どんな大人になったのか、とてもとても気になってしまい、次に”2冊目”の本を読み始めました。


次回、「アテトーゼ型脳性まひ“ラブちゃん”の、2冊の本を読んで感じたこと:その2(三重苦楽)」…に続きます。


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2017-03-27(Mon)

素人でも読めるリハビリの教科書!? 「脳性まひ児の家庭療育」

今回は、私が大変重宝している、リハビリ関連の書籍をご紹介したいと思います。

実は、娘のあおいが1歳7か月のとき、病状について、整形外科に、セカンドオピニオンを聞く機会があったのです。

遠方の病院で、あおいと私は先生に直接お会いできず、私の母(あおいの祖母)を介して、書面での遣り取りになってしまったのですが、「なにか素人でも読めるよいリハビリの本はないか」と伺ったところ、薦められたのがこの本でした。


中身は結構専門的ですし、素人でも読めるといいつつ、素人だとちょっと読みづらいと感じる部分も多々あるのですが、療育のあらゆる面について書かれた、まさにリハビリの教科書、という印象を受けました。

薦めてくださった先生が、“自分が必要だと思うところから、何年もかけて読むとよい”と、仰ってくださったとのこと、気の向くまま、知りたいと思った部分を、時折繰り返し読んでおります。





脳性麻痺児の家庭療育

↑「脳性まひ児の家庭療育 原著第3版」
編著:Nancie R. Finnie 訳:梶浦一郎 鈴木恒彦
医歯薬出版株式会社発行 サイズA4 全約330p(厚さ2㎝くらい)

価格が税別3,500円とお高めです。先生に薦められたこともあって、私は新品で買ってしまいました。多分図書館にも入れてもらえると思いますし、たまーに、赤線が引かれてるような勉強あとのついた古本が、ネットで安く売っているかもしれません…。



この本の中で一番よいと感じたのは…たくさんの子供の絵(写実的な絵ではなくものすごく簡素な絵です)が載っていて、「この姿勢はしてはいけない」「この姿勢をするといい」というのが色々と書いてあるところです。

正常な姿勢反応と異常な姿勢反応の違い、手の機能の発達の仕方、緊張が高い子供の抱っこの仕方
…などが図とともに説明されているのが、分かりやすく、私には、とても参考になりました。


私もあおいに、「今度こういう姿勢をさせてみよう」とか、「こういう風に顔回りの嚥下訓練をしてみよう。」など色々発見がありました。


また、在宅生活に入ってからお世話になっているOTの先生に、「この本のここが分からない」とおききすると、教えてくださったり、母親がリハビリについて学ぶ中でなにかと便利な本なのではないか、とも思います。


摂食やコミュニケーション、トイレトレーニングや衣服の着脱など、障害児の生活のあらゆる面について、幅広く書かれています。

対象年齢は0歳~5歳、とありますが、あおいの場合、心身ともに発達がすごくゆっくりなので、上手くゆけば、もっと長い間、重宝しそうな気がします。

経管栄養や呼吸器の管理などについては触れられておらず、“正直、チューブとかあるとこの体位簡単にはできないわ”などと思うこともありますが、そのへんは自分で方法を探っていくところでしょうか。



最初の部分では親のあり方についても言及されていて、こんな文章もありました。



「障害のある子どもを望む人はいません。私たちは誰もが、丈夫で、顔だちもよく、頭のよい子を望むものです。(略)
脳性まひ児の両親の抑うつされた悩みは重く、事実たいていは厳しいものがあります。最初は、怒り、罪悪感、恥ずかしさ、絶望、自分を哀れむ気持ちなどにうちのめされ、次には逃れたいという苦しみの方が大きくなります。(略)最初の混乱に代わって、悲しみ、わびしさや孤独感、失われた正常な赤ちゃんへの切望がわいてきます。こうした悲嘆が続くうちにも、自分たちが望んできた赤ちゃんをもてなかったことに徐々に順応していきますが、一方で、現実の赤ちゃん(脳性まひ児)はそこに横たわり、普通の世話を求めているのです。」


(「脳性まひ児の家庭療育 原著第3版」第3章1.受け入れの問題 より一部抜粋)




私がこの本に出会ったのは、あおいがちょうど分離オペを受けたあとの頃。「私は自分の子供に障害があることを受け止めている」と思っていましたが、それでも、最初にこの部分を読んだときには、すごく胸に突き刺さるものがありました。


著者は、イギリス人?の、理学療法士の方で、元となる第1版が出版されたのは1970年だそうです。


「両親が障害のある子供を受け入れていくこと」「必要な助けを求めること」「最終的には大きくなったときに社会とつながりを持つことを目標としていくこと」…など、“療育”そのものの考え方について書かれているところが、欧米的(キリスト教社会的)なのかなあ、とも感じました。


今は第4版がでているようですね…。
私が購入したのは第3版ですが、娘の療育に必要と感じた部分から、日々少しずつ取り入れていきたいと思っています。


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最近の読書といえば漫画本ばっかりになってしまっているのですが、長期の入院生活の頃、脳性麻痺に関する書籍をちょこちょこ読んだりしていました。その感想などを時折、「障害関連の書籍」のカテゴリで書きたいと思います。




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原因不明の脳性麻痺の娘・あおいについて綴るブログです。喉頭気管分離オペ・胃ろうオペを受けています。

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