2017-07-21(Fri)

地域とともに生きる障害者の姿~映画「マイ・レフトフット」~

家族全員、夏バテ気味な日々が続いていますが、気分転換に?以前みた映画の感想文を、勝手気ままに書き綴りたいと思います。


私の中で、「脳性麻痺の人が出てくる映画といればコレ」と、娘が生まれる前からその存在を知っていた作品なのですが、「ムリヤリ感動ものにしたような障害者の人の映画って苦手なのよね・・・」と偏見だらけの価値観もあって、観るのを長らく遠ざけておりました。


ただ娘が生まれてからは、「なにか少しでも参考になることがあるかもしれない。」・・・と鑑賞への意欲が湧き始め、今年になって、ようやくみることができた「マイ・レフトフット」という映画・・・・・・私が想像していたよりも、ずっと静かで、素朴な良作でした。


(以下、内容に関してはネタバレ全開なダラダラした感想文になっています。)


マイレフトフットフォックス映画0718

↑「マイ・レフトフット」1989年の作品。103分。
販売元: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン




映画「マイ・レフトフット」は、その題が表すとおり、”左足先しか動かすことができない”重度の脳性麻痺の男性が主人公の作品です。


1932年にアイルランドのダブリンで生まれた、クリスティ・ブラウンという実在の人物が書かれた回想録を原作になっています。

映画は、回想録を出版したクリスティが、付き添いの看護師さんとともに、過去を振り返るかたちでスタートしていました。


クリスティは何が原因で脳性麻痺になったのか……ですが、映画にはそのあたりの描写は一切なく、「生まれてきた子供に異常があった」という演出があるものの、お産の様子はもちろん、ひいては赤ちゃん時代の姿は一切でてこないまま、7歳くらいになったと思われるクリスティ少年の姿から描かれていました。


My_left_foot海外版DVD0718

↑海外版のDVDの表紙。
ヒゲの青年が大人になったクリスティで、後ろにいるのがお母さん。クリスティの家族は、22人兄弟で、そのうちの半数の方が亡くなられている・・・と、時代なのか、地域の特色なのか…なかなか今では考えられない、特異な環境のように思いました。




クリスティ少年は重度の肢体不自由。


兄弟たちが椅子に座って食事や勉強をする中、ひとり、部屋の片隅、床の上に横たわっている姿が印象的です。


どうやら、「本来なら施設に預けられるほどの重度の障害者」であったにもかかわらず、彼の家族・・・主に母親が、「普通に家での暮らし送らせたい」と願ったことにより、自宅で兄弟たちとともに暮らしている・・・ということが分かります。


どうしても私は、最初、自分の娘と比べながらクリスティ少年の障害をまじまじと見てしまいましたが、全身拘縮しているものの、”医療ケア”がいるわけではないクリスティ少年・・・・・・しかも、左足を軸足にしつつ、床を背這いで移動したり、身体を自分で起こしたり・・・・・・不自由を抱えつつも、力強く動く姿に、「すごい、すごい」と思うばかりでした。


発語がなく、いつも悲しそうな表情を浮かべ、意思の疎通が困難だったと思われるクリスティ少年ですが、特に、実の父親からは、「何も分かっていない奴」と、家庭内で”差別”をされていました。


ところが、ある日、そんな父親の目の前で、チョークを1本、左足にはさむと、床の上に”MOTHER"と見事に字をかいてみせます。


それをみた、お父さんが、「天才だ。」と息子を担ぎ上げて嬉しそうに外に連れて行く姿が印象的でした。

なんともゲンキンなお父さんとも思ってしまいますが、このお父さんの気持ちも分かります。

私自身、娘と接する中で、これまでも、今現在も、「どんなかたちででもコミュニケーションをとれないか」ということは最大の関心事ですし、日々厳しさと焦りを感じる部分でもあります。


実の息子とはいえ、意思疎通などできやしないのだからと、子供と関わることから逃げてしまったこのお父さんの姿も、リアルな親の姿のように感じました。



マイレフトフット原作クリスティブラウン実物0718

↑「The Life That Inspired My Left Foot」海外の原作本の表紙。Mainstream Publishing; Reprint出版
クリスティ・ブラウン本人の子供時代の写真が、表紙に使われています。足先で絵を描く、足でタイプライターを打つ・・・と、唯一身体で使える部分を使ってたくさんの表現をされていたようです。



そして作品を通して一番心にのこるのは、クリスティと、兄弟や近所の子供たちとのかかわりです。

みんな、クリスティを”普通の子供”ではなく、明らかに自分たちと異なる”異質な存在”として受け止めているように思いました。

車椅子すらなく、野菜などを入れるような大きな木箱の荷車を、バギーの代わりにあてがわれ、その中にいつも横たわっているクリスティ。


子供たちが、みんなでその荷車を押して、遊んだりしている姿には、助け合いとか、弱者への慈しみとか、そういうものではなく、”そういう子が自分たちの近くにいるから一緒に過ごしている”という、なんの理論もない、シンプルな行動のようにみえました。


ときに遠慮なく、”普通でないこと”をからかわれたり、区別されたり・・・
密かに好意を寄せた女の子からは、一切の遠慮もなく、キッパリとフラれてしまったり・・・


それでもみんなの中に混じって、遊んでいるクリスティと子供たちの姿に、力強いものを感じました。



**********


クリスティが学校に行っている描写や教育を受けているようなシーンがなかったので、勉強はどうしていたのだろう・・・と疑問に思いつつも、17歳を過ぎると、専門の治療施設のような場所に通う場面がでてきました。


元々絵の才能があり、高い知能を持っていたと思われるクリスティですが、施設の先生との出会いにより、どんどんその才能を開花させていき、不明瞭だった発語も訓練により改善され、言葉のコミュニケーション能力も飛躍的にあがっていきます。


そして、指導を受けていた女性の先生に、クリスティは恋心を抱くのですが、先生は別の男性と結婚することになり、大失恋。自らの命を絶つことまで考えてしまいます。

思春期のよくある失恋も、大きなハンデを持っているクリスティにはより重くのしかかり、「僕は心でしか愛されない。身体まで愛してくれる人がいない。」という台詞が切実です。



*********


この映画を観る前に私が抱いていた偏見のひとつ・・・・・・

「障害者の中で、絵を描いたり、本を書いたり、なにか才能を発揮する人なんて、ほんの一部だけで、特異な存在なのだ。そんなスゴい人を、障害者を代表する存在のようにクローズアップするのは、よくない。」


というような考え……

正直なところ、障害児の母となっては一層、完全に捨てにくい部分もあります…。



けれど、この作品をみたことも一つのきっかけですが、何かを表現されたり、成し遂げたりされている障害のある方々の努力は、壮絶で、単に元々才能があったとか、恵まれていたとか、そんな言葉で簡単に片づけられるものではないのだと、最近になって感じることが増えてきました。



また、本作のクリスティにとっては、絵を描くなどの自己表現は、ある種“孤独の代償”だったのかもしれない、とも思いました。


クリスティにとって、生まれた街でただ一人、身体を動かせないこと、まわりの人と異なることは、とても辛くて孤独だった。


人生で誰しもが味わう孤独感・・・・・・健常者であれば、スポーツをしたり、あちこち出かけたり、異性と交際をすることだったり・・・そういったことで紛れさせることができるエネルギーも、彼にとっては出口がなく、その思いが、絵を描くことや回想録を書くことで発散されていったのかもしれない・・・とも個人的には感じてしまいました。




***********


映画は終盤を迎えると、ふたたび、回想録を出版し終えた現在のクリスティに戻り、ラストには、付き添いをしていた看護師さんと、クリスティが、なんと交際をはじめることになります。
(そして映画の終わりにテロップが出て、そのあとにご結婚された、ということが分かります。)


このくだり、ちょっと唐突な感じもして、上映時間がもう少し長くてもいいからもっと丁寧に描けなかったのかしら・・・などと思ってしまいましたが、2人がクリスティの生まれ育った街を見下ろしている場面は、不思議と爽やかです。


(ただ49歳で亡くなったというクリスティ・ブラウン本人の史実をみると、この結婚、幸せではなかったのかもしれません。そこは、人生の一部分だけを切り取った映画ならではの“ストーリー”になっているようにも感じました。)



父の祈りをDVD0718

↑クリスティの17歳以降を演じた、主演のダニエル・デイ・ルイスさんは有名なイギリス人の俳優さんで、この作品でアカデミー賞主演男優賞を受賞。(そのあとさらに2回も受賞しているとのこと、スゴすぎる…)
イケメンを売りにしてない俳優さんなんでしょうけど、普段のお顔はなかなかのハンサムさんではないでしょうか。(写真は別の出演作品:「父の祈りを」 販売元: ジェネオン・ユニバーサル)






映画「マイレフトフット」・・・。正直、娘の訓練とか、学校のこととか・・・そういうことで参考になるものは全くありませんでした(笑)

けれど、クリスティ少年と家族、そして地域の人たちのリアルな生活の姿に、不思議な元気をもらえる作品でした。




私が娘を連れ歩くとき・・・・・・いつもどこかで、「少しでも普通の子供にみられてほしい。」という思いが、いまだにくすぶっています。

けれど、まわりの人たちからみれば、やはり娘は、見慣れない、普通の子供とは異なっている・・・・・・特異で異質で、一見では到底、理解しにくい存在なのだと思います。


それを受け止めた上で、まわりの人と、かかわりを持って行くにはどうすればいいのか・・・。


そこには、親が介入できる部分を遙かに超えた領域もあるのかもしれません。

「娘を普通の子のように育てたい。」という自分の気持ちが誤りでないことを願いつつ、できるだけ、外とかかわる機会をつくり、娘の世界に広がりをもたせることは出来ないのだろうか・・・・・・


日々悩みはつきませんが、少しずつできることにトライしていきたいと思う今日この頃です。



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私が長く続けてきた唯一の趣味が映画鑑賞だったのですが、出産後は、映画を観る時間は皆無に近い状態に……。それでも、昨年は夫と交代で「シンゴジラ」と「君の名は。」を観に行ってしまいました(笑)
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2017-04-28(Fri)

「まだ人間じゃない」

今回、母の趣味に走った記事です。

私が好きな作家の本に関する、感想・考察…などを書いたものになりますが、その内容が、一部「中絶」に関連したものになっています。

そのことに関する具体的な説明などは一切ないのですが、トピックとして気分を害される方もおられるかもしれないので、閲覧注意、ということをお知らせさせていただきたいと思います。



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高校生の頃、私は、フィリップ・K・ディックというSF作家の書いた小説にハマっていました。

映画「ブレードランナー」「トータルリコール」など、ハリウッド大作の原作者としてよく知られている人で、今のアニメや漫画などの多くの作品にも、影響を与えたとされている作家さんです。


表題の「まだ人間じゃない」は、そんなディックが書いた、短編小説なのですが、そのタイトルとともに、強烈なインパクトを、高校生だった頃の私に、のこしました。


この作品の中の未来では、恐ろしいことに、「12歳以下の子供は“人間”として認められず、“中絶”の対象として、生殺与奪を社会や大人に握られている」という世界観になっているのです。


まだ人間じゃない早川書房

↑「まだ人間じゃない」フィリップ・K. ディック (著) 早川書房
何パターンかの文庫本が出版されていますが、私が読んだのは、“ディック傑作集4”と題された、このバージョンのものでした。1974年に出版された作品。




お話としては、短編なので、短いものです。

“12歳以下の子供は堕胎の対象である”という未来の中……“堕胎トラック”なるものが近くに来るたびに怯える少年の姿が、リアルに描かれています。

「こんなのはおかしい。」そう思った少年は、自分の母にその気持ちを訴えますが、母親は、「あなたはもう12歳になったから大丈夫。」と取り合いません。

「12歳以上になると人には魂があるのよ。」と説明する母親に対し、「僕は魂を手に入れたという気分がしない。前と同じだ。」と少年は語ります。


この未来の世界…。
“12歳を過ぎた人間には魂がある”というセオリーが、世間の人々に浸透している……という謎の世界観なのですが、人間であるかどうかを推し量るその基準が、「高等数学」(代数)を理解できるかどうか……になっており、奇抜なようでいて、妙なリアルさが漂うのです。



この堕胎制度に反感を持っている人物も登場します。

「無力なものに対する憎しみだけではない。それ以上のものがからんでいている。」

「母性というものはどこへ行ったのか?小さく、弱く、無防備の者に、並々ならぬ庇護の手を母親が差し伸べたのはいつのことだったろう?」


そこで示されるのは、厳しい競争世界への疑問であったり、私達の今の社会にも通じるような“世代間の対立”についての危惧であったり……印象的な台詞や独白が続きます。


けれど、この短編小説では、そのシステムが最後に打破される…というような起承転結がハッキリとした展開はなく、その未来の生活から抜け出せない人たちの姿が描かれています。


この小説の異様な未来の設定に、当時、私は衝撃を受けました。



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折しも、この本を読んでいた、高校生のとき……学校の道徳(のようなもの)の授業で、「中絶」の処置を実際にされたことがあるという女医さんが校内にいらして、そのお話をきく…というなんとも貴重な機会がありました。

学校側の意図としては、「軽々な性交渉に対する危険性の提示」を行いたかったのでしょうが、私はこの話に、耳を塞ぎたくなりました。


「女の方に、全くの非がない状況で、妊娠することだってある。産みたくても育てられない状況の人もいる。それにもしお腹の中の子どもに何か問題があったら…その状況とここにいる全員が無縁だといえるのだろうか。この話を今きくことで何が得られるのか。」

と思い、ひたすら気分を悪くするだけでした。


けれど、この小説は、私がこのとき抱いたようなある種の“倫理観”にすら、鋭い刃をもって向かってきたのです。


「妊娠22週までなら中絶してもよいのか。そこが法律の定義する”命“なのか。命のはじまりとは一体いつからなのか。受精卵からか。それとももっと前か。もし遠い未来では12歳までが中絶可能の範囲内、というのが当たり前の認識になっていたら?今の世で誰も大きく異議を唱えないのと同じように・・・。」



そして、長い年月が経ち、私はのぞんでいた妊娠を経て、出産……知らずとも、娘は重度の障害を抱えていました。
娘の医療事情を考えて、転居することになった際、再びこの本を手に取る機会がありました。そのとき私の中に、ふと恐ろしい思いがよぎったのです。

「もし12歳までが中絶の範囲内という世界ならば、障害児は圧倒的に少ないのだろうか。」


一体、この作家はどんな思いでこの小説を書いたのだろうか…。

高校生のときには、まったく気付かなかった、この作品の、もっとも恐ろしい部分を、はじめて知ったような気がしました。



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時々、ネットなどで、障害児の親である私が、思わず目を背けたくなるような厳しい意見を目にすることがあります。

「重度の障害を持った人間は、“生きている”といえるのか?」
「重度の障害者は生きていても、本人も家族も辛いだけだ。」
「重い障害のある人は、国の負担になっている。」


少し前まで、こういった意見に私はただ怒りを感じていましたが、今では時折、「多くの人が口にする“かわいそう”という言葉よりも、“障害”に近くで触れたならではの重みもあるのかもしれない」…と、感じるようにもなりました。

そして、こういった言葉は、時に、障害者の親自身が、子の障害と向き合う中で、一度は去来する思いであるようにも感じます。


けれど…。
娘を産んでからはじめて気づいたことですが、どんな人間も、意外と“障害”とまったく無縁ではないのかもしれない…と思うようにもなりました。

ある日いきなり事故にあって、手足を失うかもしれない。人類の叡智でさえ未だ解明できていない様々な病に自分がいつかかるともわからない。雷にいきなり打たれるような低い、低い確率だと思っていても、いつだって可能性はゼロではない……。

そんなことを考えるようになりました。



そして、この手の話題でよく挙げられる意見……「“こういう人間は生きていてはいけない。”と弱者を切り捨てていったとき、いつの間にか自分が切り捨てられる側になっていないだろうか」…という問いも、本当に、最もだと思いました。


私の娘には重度の障害があり、発声もできませんが、それでも明確に自分の意思を示してみせるようなときがあり、まわりを驚かせたことがあります。

反対に、母親の私…は、健常者であるにもかかわらず、人とコミュニケーションを取るのが下手な人間です。なおそうという気持ちがあっても、他人にどう思われるかを恐れ、自分の殻に閉じこもってしまうような身勝手さが、昔も、今も私の中に強くあるような気がしています。

この1年、実は、娘よりも私の方が、コミュニケーションの点では“障害”を抱えているのではないか?……などと思ったこともありました。


うつ病になって働けなくなった人、お酒を飲んでアルコール中毒になってしまった人、社会とのかかわりを持つことを一切やめた人…。

“障害者”ではなくとも、世を見渡せば、様々な“問題”を抱えた人たちも沢山いるように思います。

なにを“障害”とみなすか。誰を“障害者”とみなすか。その“障害”の度合いで人間の価値を推し量れるのか…。


短編小説、「まだ人間じゃない」は、こういったボーダーラインを安易につけることの怖さ…を示唆しているように思えます。




人間以前早川書房

↑近年、ディックの作品は、表紙カバーを一新して、“よりオシャレな見た目”で本屋さんに置かれています。「まだ人間じゃない」は「人間以前」というタイトルに変わって、こんな表紙に。作中登場する、“未人間”という言葉も印象的です。でもやっぱり旧題の方がインパクトあるなあ。



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「まだ人間じゃない」を書いた、ディックの最も有名な作品で、「アンドロイドは電気羊の夢をみるか?」という長編小説があります。


この作品の世界観も少し変わっています。



大気汚染などで、いわゆる自然の動物(犬、猫、牛などすべて)の個体数が激減しており、「なにか動物を飼っていること」が人々のステータス…自分の存在証明のようなもの…になっているという未来。

主人公は、ほんものそっくりの「機械でできた羊」(電気羊)しか持っておらず、高額な、本物の羊を買うお金を得るために、賞金稼ぎの仕事をはじめます。

ターゲットは、人間そっくりのアンドロイドが6体。

見た目も、振舞いも、まったく“人間”と同じ。中には、記憶操作を受けて、自分をアンドロイドと認識していないものまでいる有様……。

主人公がそのアンドロイドたちと対決していく中で、そのうち、
“人間なのにアンドロイドよりもよっぽど情のかけらもない奴”だったり、逆に、“アンドロイドなのに人間よりも情感あふれるような奴”だったり…色んな人・物に出くわしていきます。

そうした中、主人公の精神は次第に混乱していき、「もしかして、俺自身が記憶操作されたアンドロイドではないのか?自分で人間と思い込んでいるだけで?」……という、自身の存在を疑うという、実にスリリングな場面が登場するのです。




この作品でも、「なにかにボーダーラインをつけて、ラインから出たものを抹殺すること」への危惧が示されているようにも思えます。


アンドロイドは電気羊の夢をみるか 早川書房

↑「アンドロイドは電気羊の夢をみるか?」フィリップ・K. ディック (著) 早川書房
映画「ブレードランナー」の原作として知られる、ディックの代表作。1977年に出版された作品。タイトルからは尖った印象を受けられるかもしれませんが、ディック作品は、(個人的に)SF小説の中で最も読みやすい…ような気がします。




著者のフィリップ・K・ディックは、生前には今のような評価を得られず、人生の大半が生活苦のまま、53歳で亡くなっています。著作が映画化されたのもすべて彼の死後でした。

双子の妹が生後わずかで亡くなっていることが、彼の死生観に大きな影響を与えたともいわれており、その人生は薬物乱用との戦いだったと記録されています。

ディックの作品でしばしばみられる「現実世界への強い疑い」は、いつ読んでも、真に迫った、興味深いものであります。

そして度々みられるようなテーマ……


どこかでなにかを犠牲にして社会が上手く回っているようにみえても、自分がマイノリティの側にまわったとき、みえる景色はガラリと変わって見えるのだ…


ということ……私は今になってひしひしと感じています。



*********


「12歳以下の子供はまだ人間じゃない。」「アンドロイドには生命のかけらもない。」

ディックの小説を読みながら、そんなフィクションの世界を否定する私自身も、常日頃から、なにかにつけて、ボーダーラインをひいて、物事をみているような気がします。


「健常児の親と障害児の親」「働いている人、いない人」「自分の話しやすい人、そうでない人」




なにかを区切ることで、自分の気持ちに整理をつけたりすることも出来るのかもしれませんが、その枠組みでしか考えられなくなったとき、自分で自分を生き辛くしてしまうようにも思います。



それは自宅で娘と過ごすようになったこの1年、私が反省してきたことでもあります。


「障害児の親は自分の子の面倒を自分でみなければならない。」「障害のある子はとにかくリハビリしなければならない。」


そうした思いは、私を追い立てて、息苦しくさせてきました。


“私の娘は障害児であるけれど、その前に普通の子供でもある”


そのことを忘れずに、日々の育児を楽しむことができたら、と思っています。





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2017-04-02(Sun)

“ネットにはじかれたボールはどちら側に落下するのか、わからない” 漫画:「スティール・ボール・ラン」

30を過ぎたいい年をして、漫画を読むのが好きな私…。

中でも「ジョジョの奇妙な冒険」シリーズは大のお気に入りなんですが、人様に薦めると、よく、


「えー。100巻くらいあるんでしょう。今から読むのちょっとシンドイかな。」
「ジョジョって8部まであって、主人公が全員別々とかいうけど、結局何部がいいの?途中の部から読んでもいいの?」

なーんて、言われてしまうこともしばしば。


そんなジョジョ初心者の方に是非おススメしたいのが第7部!!

障害のある子どもの育児ブログで、いきなりなんですが、今回は、自分の好きな漫画作品についてご紹介したいと思います。


「ジョジョの奇妙な冒険」シリーズの第7部は、それまでにあった6部までと切り離された世界になっていて、このパートからでも読みやすくなっています。

そして、この7部の主人公、ジョニィ・ジョースターは、歴代ジョジョ主人公、唯一の身体障害者…なのです。


ではここで、第7部:スティール・ボール・ランのお話をちょっとご紹介。


***********


舞台は19世紀末のアメリカ―。主人公のジョニィは、もとは競馬会の有名な騎手だったのですが、慢心から事件に巻き込まれて、下半身不随になってしまいます。このジョニィがひょんなことからアメリカ大陸横断レースに参加することになるのが、7部のストーリー。(上半身だけは動くので、なんかスゴイ方法で馬にのってみせて、馬でレースを移動します。)


この主人公・ジョニィの台詞の有名なもののなかに、

「ぼくはまだ“マイナス”なんだッ!“ゼロ”に向かって行きたいッ!。」

というものがあります。

以前から、“なんだか重みがあってカッコいい台詞だな”と思っていましたが、出産後になって読みかえすと、ものすごく胸に突き刺さるものがあります…。


「障害なんてなかったはずなのに。」「こんな人生は自分の人生ではないはずなのに。」


こういうバトルものの漫画の主人公ってなにかと強メンタルな人が多いように思うけれど、このジョニィは、自分の過去に未練タラタラ。後悔がいっぱいな人なんです。でもそこがなぜか魅力的…!


SBR10集英社
↑このイケメンが主人公のジョニィ。メソメソ、クヨクヨもするし、意外に腹黒いところもあったり、ある意味、主人公らしくない、マイナスのオーラがあるキャラクター。“自分の障害をなおす奇跡を求めて”アメリカ大陸横断レースに参加します。
(「スティール・ボール・ラン」第10巻 著者:荒木飛呂彦 発行:集英社)




そして、ジョニィの相棒役として、ジャイロ・ツェペリという、もう一人の主人公ともいえる存在が登場します。ジャイロはヨーロッパの小国の出身で、代々、死刑執行人を受け継ぐという特殊なバックグラウンドの持ち主。

ツェペリ家の嫡男は、“罪人を一瞬で死に至らしめるため、人体や医学に精通していなければならず”、表向きは医業を営んでいます。つまり、ジャイロはお医者さんでもあるんですよね。

…このジャイロの過去のエピソードの中に、印象的なお話があります。…


ある日、医師をしているジャイロとその父のもとに、事故にあった妊婦さんが運ばれてきます。

「2人が助かるのは無理だ。選ばなくてはいけない。母親か?その息子か?…ジャイロ、おまえがどちらか選べ。」

父親にそういわれたジャイロは、“2人とも助けられないか考えよう”“この女性の夫が父親なのだから、彼に選ばせよう”と、決断を渋ります。

そのときジャイロの父親は、息子に、これを選ぶことが自分の一族の役割だといって、彼を諭します。


「『母親を救えばまた次の子供は産めると考えるか?』それとも“跡取り”だからひとり息子の方が大切と考えるか?』一族や父親の価値観で…
だが いいか…テニスの競技中・…ネット、ギリギリにひっかかって、はじかれたボール…
その後、ネットのどちら側に落下するのか…?誰にもわからない。そこから先は“神”の領域だ。」



この、「ネットにはじかれたボール」の台詞、作品に数回でてきて、私に強い印象をのこしました。


ある別の過去のエピソードでは、ジャイロが、目の不自由な女性の視神経の手術をしようとして失敗に終わり、彼はその結果を呪います。

けれど、その後、実はその女性が、「盲目のままでいたがために、暴力を振るっていた元夫の家族に殺されずにすんだ」という、数奇な運命を知ることになります。


人の踏み込むことのできない領域があるということ…。
けれど、運命に翻弄されながら、ジャイロやジョニィは懸命にそれに抗おうとします。


SBR11集英社
↑こちらのイケメンが相棒役のジャイロ。ある意味、ジョニィよりもプラスのエネルギーに満ち溢れた、主人公よりも主人公っぽい人である。“死刑を控えた無実の少年の恩赦を獲得するため”大陸横断レースに参加します。
(「スティール・ボール・ラン」第11巻 著者:荒木飛呂彦 発行:集英社)



*************


娘のあおいを産んだ後、「もし何かが少しでも違っていたら、娘に障害はなく、元気に走り回っていたのかもしれない。」と思うことが度々ありました。

「妊娠のタイミングがほんの少しでもずれていたら。」「違う産院を選んでいたら。」「妊娠中の行動ひとつが何か違っていたら。」

ふとした瞬間、そんな考えに取り囲まれてしまうときが、今でもあります。


娘の障害についてこれまで、様々な人が、様々な言葉を投げかけてくださいました。

「あおいちゃんが、このパパとママなら大丈夫って選んで生まれてきたんだよ。」
「きっとなにか前世からの因果が巡り巡ってこうなっているのよ。ママのせいじゃない。」
「これは試練みたいなものよ。」


私たち親子を思って、あたたかくお言葉をかけてくださったことにとても感謝しているのですが、正直、私の心を素通りしてしまう言葉も沢山ありました。


辛いとき、苦しいとき…。映画や漫画の架空の世界に、逃避して、なにか答えをみつけようとする、小中学生のころから少しも精神年齢が変わっていない、幼い私が、「娘が重度の障害を持っていること」「障害をもった子供の母親である今の自分の人生」…を、“納得”させてくれるパワーをもった言葉…。

自分の人生に照らし合わすには、荘厳すぎる、趣のありすぎる言葉ですが、「ネットにはじかれたボールはどちら側に落下するのか、わからない」という台詞、心にすごく響きます。


“何かが違っていたら、ボールは違う場所に落ちたかもしれないし、それでも同じ場所に落ちたのかもしれない。でもそれは人には推し量れない領域。けれど、ただ一つ言えるのは、ボールが落ちたのは今の場所だということ。”


**************


この第7部、全体をとおして、「多元宇宙論」とよばれるものを、テーマの下敷きにしているような印象を受ける作品になっています。

私には、理系の知識が全くありませんが、「多元宇宙論」とは、文字通り、「私たちのいる世界とよく似た平行世界、よく似ているけれど少しずつが違った世界が無限に存在しているのだ」という、いわゆるパラレルワールドの考え方のようです。(現実に、物理学でこういった研究もされているらしいです。)


「もしかしたら我が子に障害がなかったかもしれない世界」
「もしかしたら我が子が生まれていなかったかもしれない世界」
「もしかしたら自分さえ生まれていなかったかもしれない世界」


考え出すとキリがありません。

なにかが少しずつ違った世界、私たちが認識できない世界が、点のように、やがてそれが線を、円を描くように存在している…。


私は、なんの信心もなく、確固たる死生観も持っていない、ゆるーい人間なんですが、こういう考え方に、時折ロマンを感じて、日常悩んでいることがすごくちっぽけなものだと思わせてくれるときがあります。



漫画「ジョジョ」の第3部以降のパートは、“スタンド”とよばれる超能力を駆使したバトルになっていて、この7部においても、自分の過去・現在に未練タラタラの主人公ジョニィが、やがて、とんでもなくエゲツナイ能力をもったラスボスと対決することになります。


ここにも「多元宇宙論」の要素が絡んできて、なんというか、単なるバトルものを超越したものすごい戦いになっているなあ、と、ドキドキハラハラしながら読んでいました。


20代の頃は4部が一番好きだったけど、今は7部が好きかも。
時間があったら、また一気に読み返したいなあ。


sbrセット集英社
↑「スティール・ボール・ラン」全24巻完結 著者:荒木飛呂彦 発行:集英社

いともたやすく行われるえげつない実写化…!そんなお金があったら、早く5部をアニメ化してくれないでしょうか。7部は馬の動きがアニメーションにしにくいから実現不可能といわれてるらしいけど、なんとかなりませんかねえ。



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思いっきり趣味につき走ったことを書いてしまいましたが、この「映画・漫画・アニメ・小説」のカテゴリにて、障害のある子供の子育てをする中で自分の心を支えてくれた作品とか、障害者の登場するフィクション作品についての自分の感想……などを書いていきたいなあ、なんて思っています。


ブログにアクセスしてくださっている方がいること、読んでくださっている方がいること、コメントをくださったことがいること、すごく、すごく、嬉しいです…!

SNSも一切しておらず、コミュニケーション下手な私の文章、すごく癖がありそうですが、読んでくださった方、本当にありがとうございます。


ブログ開始前から書き溜めていた下書きがなくなってきた上、今月から娘の通園など生活の変化があって、慌ただしくなりそうなので、これからはゆっくり気ままに更新していきたいと思います。




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原因不明の脳性麻痺の娘・あおいについて綴るブログです。喉頭気管分離オペ・胃ろうオペを受けています。

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