2017-04-28(Fri)

「まだ人間じゃない」

今回、母の趣味に走った記事です。

私が好きな作家の本に関する、感想・考察…などを書いたものになりますが、その内容が、一部「中絶」に関連したものになっています。

そのことに関する具体的な説明などは一切ないのですが、トピックとして気分を害される方もおられるかもしれないので、閲覧注意、ということをお知らせさせていただきたいと思います。



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高校生の頃、私は、フィリップ・K・ディックというSF作家の書いた小説にハマっていました。

映画「ブレードランナー」「トータルリコール」など、ハリウッド大作の原作者としてよく知られている人で、今のアニメや漫画などの多くの作品にも、影響を与えたとされている作家さんです。


表題の「まだ人間じゃない」は、そんなディックが書いた、短編小説なのですが、そのタイトルとともに、強烈なインパクトを、高校生だった頃の私に、のこしました。


この作品の中の未来では、恐ろしいことに、「12歳以下の子供は“人間”として認められず、“中絶”の対象として、生殺与奪を社会や大人に握られている」という世界観になっているのです。


まだ人間じゃない早川書房

↑「まだ人間じゃない」フィリップ・K. ディック (著) 早川書房
何パターンかの文庫本が出版されていますが、私が読んだのは、“ディック傑作集4”と題された、このバージョンのものでした。1974年に出版された作品。




お話としては、短編なので、短いものです。

“12歳以下の子供は堕胎の対象である”という未来の中……“堕胎トラック”なるものが近くに来るたびに怯える少年の姿が、リアルに描かれています。

「こんなのはおかしい。」そう思った少年は、自分の母にその気持ちを訴えますが、母親は、「あなたはもう12歳になったから大丈夫。」と取り合いません。

「12歳以上になると人には魂があるのよ。」と説明する母親に対し、「僕は魂を手に入れたという気分がしない。前と同じだ。」と少年は語ります。


この未来の世界…。
“12歳を過ぎた人間には魂がある”というセオリーが、世間の人々に浸透している……という謎の世界観なのですが、人間であるかどうかを推し量るその基準が、「高等数学」(代数)を理解できるかどうか……になっており、奇抜なようでいて、妙なリアルさが漂うのです。



この堕胎制度に反感を持っている人物も登場します。

「無力なものに対する憎しみだけではない。それ以上のものがからんでいている。」

「母性というものはどこへ行ったのか?小さく、弱く、無防備の者に、並々ならぬ庇護の手を母親が差し伸べたのはいつのことだったろう?」


そこで示されるのは、厳しい競争世界への疑問であったり、私達の今の社会にも通じるような“世代間の対立”についての危惧であったり……印象的な台詞や独白が続きます。


けれど、この短編小説では、そのシステムが最後に打破される…というような起承転結がハッキリとした展開はなく、その未来の生活から抜け出せない人たちの姿が描かれています。


この小説の異様な未来の設定に、当時、私は衝撃を受けました。



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折しも、この本を読んでいた、高校生のとき……学校の道徳(のようなもの)の授業で、「中絶」の処置を実際にされたことがあるという女医さんが校内にいらして、そのお話をきく…というなんとも貴重な機会がありました。

学校側の意図としては、「軽々な性交渉に対する危険性の提示」を行いたかったのでしょうが、私はこの話に、耳を塞ぎたくなりました。


「女の方に、全くの非がない状況で、妊娠することだってある。産みたくても育てられない状況の人もいる。それにもしお腹の中の子どもに何か問題があったら…その状況とここにいる全員が無縁だといえるのだろうか。この話を今きくことで何が得られるのか。」

と思い、ひたすら気分を悪くするだけでした。


けれど、この小説は、私がこのとき抱いたようなある種の“倫理観”にすら、鋭い刃をもって向かってきたのです。


「妊娠22週までなら中絶してもよいのか。そこが法律の定義する”命“なのか。命のはじまりとは一体いつからなのか。受精卵からか。それとももっと前か。もし遠い未来では12歳までが中絶可能の範囲内、というのが当たり前の認識になっていたら?今の世で誰も大きく異議を唱えないのと同じように・・・。」



そして、長い年月が経ち、私はのぞんでいた妊娠を経て、出産……知らずとも、娘は重度の障害を抱えていました。
娘の医療事情を考えて、転居することになった際、再びこの本を手に取る機会がありました。そのとき私の中に、ふと恐ろしい思いがよぎったのです。

「もし12歳までが中絶の範囲内という世界ならば、障害児は圧倒的に少ないのだろうか。」


一体、この作家はどんな思いでこの小説を書いたのだろうか…。

高校生のときには、まったく気付かなかった、この作品の、もっとも恐ろしい部分を、はじめて知ったような気がしました。



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時々、ネットなどで、障害児の親である私が、思わず目を背けたくなるような厳しい意見を目にすることがあります。

「重度の障害を持った人間は、“生きている”といえるのか?」
「重度の障害者は生きていても、本人も家族も辛いだけだ。」
「重い障害のある人は、国の負担になっている。」


少し前まで、こういった意見に私はただ怒りを感じていましたが、今では時折、「多くの人が口にする“かわいそう”という言葉よりも、“障害”に近くで触れたならではの重みもあるのかもしれない」…と、感じるようにもなりました。

そして、こういった言葉は、時に、障害者の親自身が、子の障害と向き合う中で、一度は去来する思いであるようにも感じます。


けれど…。
娘を産んでからはじめて気づいたことですが、どんな人間も、意外と“障害”とまったく無縁ではないのかもしれない…と思うようにもなりました。

ある日いきなり事故にあって、手足を失うかもしれない。人類の叡智でさえ未だ解明できていない様々な病に自分がいつかかるともわからない。雷にいきなり打たれるような低い、低い確率だと思っていても、いつだって可能性はゼロではない……。

そんなことを考えるようになりました。



そして、この手の話題でよく挙げられる意見……「“こういう人間は生きていてはいけない。”と弱者を切り捨てていったとき、いつの間にか自分が切り捨てられる側になっていないだろうか」…という問いも、本当に、最もだと思いました。


私の娘には重度の障害があり、発声もできませんが、それでも明確に自分の意思を示してみせるようなときがあり、まわりを驚かせたことがあります。

反対に、母親の私…は、健常者であるにもかかわらず、人とコミュニケーションを取るのが下手な人間です。なおそうという気持ちがあっても、他人にどう思われるかを恐れ、自分の殻に閉じこもってしまうような身勝手さが、昔も、今も私の中に強くあるような気がしています。

この1年、実は、娘よりも私の方が、コミュニケーションの点では“障害”を抱えているのではないか?……などと思ったこともありました。


うつ病になって働けなくなった人、お酒を飲んでアルコール中毒になってしまった人、社会とのかかわりを持つことを一切やめた人…。

“障害者”ではなくとも、世を見渡せば、様々な“問題”を抱えた人たちも沢山いるように思います。

なにを“障害”とみなすか。誰を“障害者”とみなすか。その“障害”の度合いで人間の価値を推し量れるのか…。


短編小説、「まだ人間じゃない」は、こういったボーダーラインを安易につけることの怖さ…を示唆しているように思えます。




人間以前早川書房

↑近年、ディックの作品は、表紙カバーを一新して、“よりオシャレな見た目”で本屋さんに置かれています。「まだ人間じゃない」は「人間以前」というタイトルに変わって、こんな表紙に。作中登場する、“未人間”という言葉も印象的です。でもやっぱり旧題の方がインパクトあるなあ。



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「まだ人間じゃない」を書いた、ディックの最も有名な作品で、「アンドロイドは電気羊の夢をみるか?」という長編小説があります。


この作品の世界観も少し変わっています。



大気汚染などで、いわゆる自然の動物(犬、猫、牛などすべて)の個体数が激減しており、「なにか動物を飼っていること」が人々のステータス…自分の存在証明のようなもの…になっているという未来。

主人公は、ほんものそっくりの「機械でできた羊」(電気羊)しか持っておらず、高額な、本物の羊を買うお金を得るために、賞金稼ぎの仕事をはじめます。

ターゲットは、人間そっくりのアンドロイドが6体。

見た目も、振舞いも、まったく“人間”と同じ。中には、記憶操作を受けて、自分をアンドロイドと認識していないものまでいる有様……。

主人公がそのアンドロイドたちと対決していく中で、そのうち、
“人間なのにアンドロイドよりもよっぽど情のかけらもない奴”だったり、逆に、“アンドロイドなのに人間よりも情感あふれるような奴”だったり…色んな人・物に出くわしていきます。

そうした中、主人公の精神は次第に混乱していき、「もしかして、俺自身が記憶操作されたアンドロイドではないのか?自分で人間と思い込んでいるだけで?」……という、自身の存在を疑うという、実にスリリングな場面が登場するのです。




この作品でも、「なにかにボーダーラインをつけて、ラインから出たものを抹殺すること」への危惧が示されているようにも思えます。


アンドロイドは電気羊の夢をみるか 早川書房

↑「アンドロイドは電気羊の夢をみるか?」フィリップ・K. ディック (著) 早川書房
映画「ブレードランナー」の原作として知られる、ディックの代表作。1977年に出版された作品。タイトルからは尖った印象を受けられるかもしれませんが、ディック作品は、(個人的に)SF小説の中で最も読みやすい…ような気がします。




著者のフィリップ・K・ディックは、生前には今のような評価を得られず、人生の大半が生活苦のまま、53歳で亡くなっています。著作が映画化されたのもすべて彼の死後でした。

双子の妹が生後わずかで亡くなっていることが、彼の死生観に大きな影響を与えたともいわれており、その人生は薬物乱用との戦いだったと記録されています。

ディックの作品でしばしばみられる「現実世界への強い疑い」は、いつ読んでも、真に迫った、興味深いものであります。

そして度々みられるようなテーマ……


どこかでなにかを犠牲にして社会が上手く回っているようにみえても、自分がマイノリティの側にまわったとき、みえる景色はガラリと変わって見えるのだ…


ということ……私は今になってひしひしと感じています。



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「12歳以下の子供はまだ人間じゃない。」「アンドロイドには生命のかけらもない。」

ディックの小説を読みながら、そんなフィクションの世界を否定する私自身も、常日頃から、なにかにつけて、ボーダーラインをひいて、物事をみているような気がします。


「健常児の親と障害児の親」「働いている人、いない人」「自分の話しやすい人、そうでない人」




なにかを区切ることで、自分の気持ちに整理をつけたりすることも出来るのかもしれませんが、その枠組みでしか考えられなくなったとき、自分で自分を生き辛くしてしまうようにも思います。



それは自宅で娘と過ごすようになったこの1年、私が反省してきたことでもあります。


「障害児の親は自分の子の面倒を自分でみなければならない。」「障害のある子はとにかくリハビリしなければならない。」


そうした思いは、私を追い立てて、息苦しくさせてきました。


“私の娘は障害児であるけれど、その前に普通の子供でもある”


そのことを忘れずに、日々の育児を楽しむことができたら、と思っています。





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原因不明の脳性麻痺の娘・あおいについて綴るブログです。喉頭気管分離オペ・胃ろうオペを受けています。

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